えみはな diary

自然と人と生命をさりげなく綴りっていきます。

自然のもつ脅威を肌で感じる (西日本豪雨)

f:id:har4fl172gr355775eg:20180812114943j:plain


 2918年7月6日から7日にかけての大雨は、ふだん雨の少ない瀬戸内海沿岸の、広島県岡山県地方に大きな災害のつめあとをを残しました。

 わたしの住んでいる福山市も、芦田川を含めあちこちで川や沼などが決壊寸前まで水位が上昇しました。写真は、家から100メートルのところにある川が、この辺まで水位があがったという証拠の写真です。

 

 ふだんは道から降りてもう一段下に土手があり、そこを歩くこともできるのですが、この日は民家ものみこむかという不安がよぎるほどの水位です。半世紀ほどこの地をみてきたわたしも、私の両親にとっても初めてのことでした。

 この写真は雨があがった次の日とったのですが、避難指示が出された前の晩は同じ水位でしたが、降り続く雨はやむ気配をみせず、車道にはサイレンを鳴らしながら消防車やらが行き来するので、恐ろしさというものを感じざるをえませんでした。

 家族と相談しその場の状況をかんがえ、しばらく様子をみることとしてよこになりました。そして朝方雨もやみ、被害はまぬがれました。

 人間は実感の動物だとおもいます。このように、目の前でおきた非常事態にはじめてこんなこともあるんだと知るのです。

 異常気象とさけばれ耳もなれてきて、あまりすべてそれでおさめたくはないのですが、気象の状況がいろいろ重なって局所的に普段にはないことが起こることはめずらしいことではありません。

 そういうリスクを背負ってわたしたちは日々この、酸素や二酸化炭素、日光や水といった生命存続に欠かせない恵みをあたえてくれる地球という住まいに生きていることを忘れないでいないといけないなと、思うのです。

 災害にあわれた方々には、謹んでお見舞い申しあげます。1日も早い復旧、復興をお祈りいたします。

家族ってなんだろう

f:id:har4fl172gr355775eg:20180529155736j:plain誰でもお母さんとお父さんから生まれてきて、一生のあいだその関係は変わることのないものとして自分の持つ人間関係の要素としてあります。

 

 

 ときに愛おしいものだったり、うっとおしく感じることもあったり、ありがたかったり、切り離したいと感じたり、ふだんは関係をとだえていたり、それでいて必ず心のどかかにあるものだったりします。

 

 医療関係の仕事に従事しているある人は、ご主人と離婚していてむすこが一人大学生の息子の学費をご主人が出しているが、奥さんは生活費や部活費をだしていているのだけど、遠くにいる大学生くんには会うことがほとんどできないそうです。離婚してお父さんが扶養しているのでしょう。

「会うこともできないのに、なんで私はここまでしないといけないのだろうと、不満に思っている」ということだそうです。

 たしかに、今の生活から考えたら働くだけ働いて仕送りするなんて、バカバカしいと思えるのもムリはありません。息子に会えない状態がいっしょう続くと思えるでしょう。

 

 でも親子関係、家族間のつながりは、さまざまなことが変化する人生のあいだでそのつながり方やお互いの立場や関係も、いくどの転機をへながら変わっていくものだと思います。「家族」というかたちがその人その人のなかでリフレーミングされるのです。年齢を重ねるごとに、大きな変化を経験するごとに。その転機のとき、苦しいときほどその価値が、存在がクローズアップされるのが家族というものだといえるでしょう。

 

ある女性は、自分の生き方に迷ってあるキャンプに泊まりがけで参加してみました。その人は夫がいるのに好きな人ができてしまい、その気持ちを捨て去ることができずに苦しんでいたのです。参加者と共に自分の人生について深く考えていくうちに、そのひとは突然きらいだと思っていた母親のことが思い出され、号泣してしまったのだそうです。そして、自分の思い込みから部分的にしか見てこなかった親に対して、いとおしさが溢れてきたのです。 

 その思いはなかなかふだんは表れない潜在意識の奥底のほうにあるのかもしれません。でも必ずあるものなのです。切れない関係だからこそ、時とともに経験と成長とともに客観的にみることができて来ると思います。

 

  なぜか毎日会っている時には空気のような存在で、いいともわるいとも思わずに居て当たり前の存在なのに、いなくなると突然ぽかんと空いたいつもあった何かがないという感覚、それが家族というものなんですね。

 

 話をもとに戻すと、その大学生くんもいつかきっと、仕送りをしてくれたおかあさんに感謝の思いでおかあさんの前にあらわれる日がくることでしょう。

 

 

「わからなくなった」と思ったとき

f:id:har4fl172gr355775eg:20180504175223j:plain  日々の暮らしで自分でいろんなことを判断し、さまざまな行動をしています。自分なりの目的意識を持って多くのことをやっています。いろんな人と話をしたり、人の行動をみて感じたり、ときにはこの社会や地域、身の回りの環境のことを考えたり、その中の自分について感じたりしています。

 そんな日常のふとした時に、「考えてみてもわからないな」とか「どうしてこうなっているのだろう」とか思って、やけに気になって考えてしまうことがありませんか?

 若い頃のわたしは、世間知らずでもあり、真面目でもあったのでときどきそんな考えにとらわれ孤立感をもってしまったこともありました。「社会をよくしたい」と思う正義感の強い人ほど、人の善意を信じすぎてそんな感じがすることがあるかもしれません。

 正義感はいいことだけど、わからない考えを膨らませてしまうのは、時間の無駄ですし、そのエネルギーがもったいないですよね。

 

 そんなとき1つには、「乱れている」ものだという観点もとりいれたらどうでしょうか?ふだん私たちは慣れ親しんだ環境にかこまれ、性格もある程度知っている人たちとのかかわりを続けているけれど、ひとたび隣の国に行き、たとえば中国に旅行したとすると、話す言語が違い、生活の習慣も使っている物も違い、そんななかに放り込まれたとします。そこでは何もかもがわからないことだらけ。

 グローバル化がすすんで、私たちの暮らしにもそんな影響が入ってきていますよね。

 このようにに大きな変化ではなくても、昨日のことが今日とは違っていたり、自分の今までの価値観でみれば多少なりともずれを感じるということ、それらが積み重なって不可解な感じをおぼえてしまうこともだれしもあることです。

 時間や季節の変化、個人的経験や記憶、潜在意識や能力によって、またはその場に占めている人間関係や位置関係(上下だけでなく深い浅い、立場上など)によって、また人の好みや感受性などにもよって、いろんな反応としてでてきます。そんなさまざまを日々、人と人は交換しあっています。意識的に、または無意識的に。そういう多義による情報にさらされている私たちなのだということを自覚する必要があると思います。

 忙しい時にはそんなことは考えていられませんから、ただ感情と思考のなすがままになってしまうかもしれませんが、言葉にあらわして紙にかいておいたり、ノートに書き出しておくと、迷った時それを見て、落ち着いてわれに返ることができます。そういう言葉をためておくというのも大切なことだと思います。

 朝ドラに登場する漫画家、秋風羽織に、こう言わせています。

「人には思いというものがありますからねえ。だからおもしろい。」と。

 

 もう1つは、階層を考えてみることもいいかと思います。2次元でなく、3次元の世界で考えます。相入れないものは、階層をかえて別次元のものとして考えます。自分の思考を立体化すると整理されていくものもあるでしょう。

 例えば、マズロー欲求段階説によると、人間の欲求には段階があって、下から生理的欲求、安全欲求、集団や仲間に属したいという社会的欲求、承認や尊敬をえたいという社会的欲求、そして自己実現の欲求の五段階があるのだそうです。下の階の欲求がかなえられて次の欲求にすすんでいくと言うこと(中には例外もあるそうです)なので、人によって今どの段階にいるかによって、得たいと思うこともかわってくるということです。

 鳥も、家のまわりを飛ぶすずめもいれば、カラスはもう少し上を行き来しますし、タカやワシのように、1キロメートルも上空を飛んで高くみわたせる鳥もいます。住んでいる時空が、たとえ飛べない人間でも思考的に違う位置にいるのかもしれません。

 そんな中、自分は自分として生きて何を人に与え、何を人から学び、どう自分の生きる目的をみつけて能力を活用し、成長し続けていくのかが、おもしろいところであり、やりがいがあるところであり、楽しいところであり、人間関係をつくり信頼関係を見出せるところであると思います。

f:id:har4fl172gr355775eg:20180504230929j:plain

 

 

 

 

スマイル & フラワー (えみはな)

f:id:har4fl172gr355775eg:20180429171541j:plain  『楽しんで人生を謳歌する」

 

 「楽しんで人生を謳歌する」という生き方を、自分の生き方として選んでやっていこうというする。そこにこそ幸福がある。という考え方を「えみはな」と名ずけます。ウキウキとした楽しい気持ちで日々を過ごそうと決め、人と強調しあい協力しあってのけものをつくらず、活かしあうことで、各々の毎日が心に汗をかきながら思いっきり生きて、人生を謳歌していこう。そう心にきめて目指してます。そんな生き方を、「えみはな」と呼ぼうととおもっています。笑いながら自分という生き方の花を咲かせようという意味です。今、自然界は花ざかり。人間も、さまざまにうつくしくはなやかな、または可憐に、それぞれの個性に応じた心の花を咲かせながらいきいきと毎日を生きてゆこうというという生き方です。

 なぜ、そんな名前をつけたのかというと、がんばって人についていかなければいけなかったり、人と競争しなければ安住の場所がみつからなかったりという社会の現実に生きているわたし達は、そのためのストレスに耐えていかなければならないと感じていて、そういうメッセージを日々うけるために、楽しいことは制限されるもの、人に気を使って自分のことはひかえなければと、疲れをためこんでしまうことが往々に起こっているからです。

 そういう生き方は、社会のなかであたりまえと思われているので案外考えることもなしにわたし達は、良いことだと思ってそうしている側面があります。がんばってもいるので達成感もあるのです。

 しかし、そういうものだと思い込んでいることで、もっと自由なやり方があること、生き生きと生きれること、無理をしないで自分の積極的な意思で行動していくという、違う選択もできるということ、そのためのリソース、知恵や方法、先人達のチャレンジもこの世界にはあるのだということに気づかない場合があります。

 どんなネガティブな感情もポジティブなモチベーションに変えてゆけるのです。

 そのためには、楽しくいきる、自分の一度きりの人生を有意義にいきるという選択をし、決断することからわたし達ははじめるのです。頑張って、人や社会に合わせすぎず、苦しい人生に耐えることはおしまいにして、楽しく生きる道を求めていこうというのです。その代名詞としての「えみはな」を掲げ、そこを起点にいろんなことを考えていってみてはどうでしょうか?

 それは、今やっていることをやめることかといえばそうではなく、今やっていることをもっとやれるように、しかも気持ちよくやれるようにということでもあります。楽しんでやれるようにするためのスキルがあるのです。

 そういう生き方がしたいと思うあなたにそのスキルについてお伝えできれば、共にそれをのばしていければ素晴らしいと想っているのです。

 

 文章力と言語能力の未熟さでどれだけ伝えられるかわかりませんが、そこのところは読みながらの想像力でカバーしてもらえることを願っています。よろしくおねがいいたします。

 

木蓮の花と視力

f:id:har4fl172gr355775eg:20180403180525j:plain

 温かい春が一気にやって来て、空気をぬりかえていきます。まるで杖を振りながら妖精が駆け抜けて行くかのように。もう、朝ふとんからでるのも怖くない。春の足音を感じるこの時期、「人生、生きててしあわせだなあ」と思うんです。

 

 上の写真家の屋根と屋根の間に小さく赤っぽく花が咲いていますよね。写真の上の真ん中あたりです。わかりますか?

 冬の間は木の枝しかなっかったのです。

 ちなみにわたしはこの冬から、いつもかけているメガネをかけないで、朝起きたての目で、外の景色を10分間ぼーっと見るのを習慣にすることにしたのです。

 その景色に、春になって赤紫の木蓮のつぼみが開きかけてきて、その小さい赤っぽい点々をみつけたときから、そこにわたしの目は集中し始めたのです。色があまりない景色を、近くばかり見ることを課してしまう日常に、遠くを意識して見る時間をとっていこうと、近視のわたしの目のために始めた習慣でした。そこに花を見るという楽しみが春とともにやってきたのです。私の目は、10分の時間の大部分を木蓮の花を見ることにつかうようになってきたのです。

 裸眼でみていると、同じようにずっと見えているわけではなく、まばたきをすることによってや、目の開け方によってなどをきっかけに、はっきり見えたりぼんやり見えたりなどいろいろに変化するのです。目の中の水分も関係しているようだし、また目から入った情報は脳の後ろの方で解析しているそうなので、脳の状態からくるのかもしれません。そうやって集中して木蓮の赤紫をみていると、遠くの山際が赤紫にみえたりしてくるのです。

 「人間、焦点を当てたもののようになる」といいますが、まさに焦点を当てれば、近視のわたしも目にもはっきり見えることがあるというのを自らの体で知ったのです。

 いつものなにげない身近な風景が10分という時間をかけること、気に入ったものを楽しんで集中してみることを通して自分のからだの微妙な感覚に気づくという新しい発見ができたことを、とても新鮮にうれしく感じたので、ブログにしてみました。

 

 お詫びですが、いぜん書いたもので、続きを書くつもりでそう言って締めくくったものがありましたが、それは関心をこれからももっていきたいことではあるのですが、

それよりも、わからない未来を毎日新しく生き続けていくなかで、そのときそのとき新鮮に感じたり、考えたりしたことを書いていく方がよりリアルさが伝わると思うようになりました。だれしも初めての今このときを生きています。失敗したり、それを見直して成功したり、新しいことに挑戦したり、慣れた道を楽しんで歩いたり、新たな工夫をしてみたり。同じではない毎日をたくさんの者と共に生きている、そんな道の一つでありたいと思います。

 

感情について知っていますか?

f:id:har4fl172gr355775eg:20180227173439p:plain私たちが感情ということについて考える時、よい感情と悪い感情とどちらを思い浮かべるでしょうか?

 たぶん、今なにかいいことがあって気分のいい人は、よい感情を想像するでしょうし、あまりおもしろいことがなかったり、疲れてめいっている人は、悪い感情を思い浮かべることでしょう。そのくらい感情は、今という瞬間的なものといえると思います。そして、時とともに変化し、また事柄や環境によってもあっというまに変化するので、私たちは意識していないことの方が多いのですが、実はいつも自分たちとともにそれは存在しているのです。そして私たちに大きな影響を与えてしまうのです。

 

 そのことについて私が知ったのは、新しい仕事場をみつけて採用され、それまで見ず知らずの人たちのなかで仕事に通い出したときでした。その場の人間関係や会社の仕組み、しごと内容もよく飲み込めてない中、言われたことをやっているうちにも、いろんなことが起こります。知らない事にはあまり首をつっこんでへまをしないように気をつかっていても、直接あまりかかわりのない先輩から、

「なんでこういうことをするの?」とわけのわからないことを質問されることもありました。また、お掃除を頼まれてやってたら、終わったあとから

「この汚れとってくださいね。」といつも必ずのように言われたり。まわりに私から見れば掃除のゆき届いてない、埃だらけのところがたくさんあるのにです。

 そんなこんなの仕事を終えて帰ってきたら、体は疲れているうえに気持ちもどんよりしていて、やっと見つけたやりたい職種であるにもかかわらず、

「このままでつずくのかな?」と思えたりして、この気分をなんとかしなくてはと思ったのでした。

 そのとき出会ったのが、『スポーツ心理学の専門医が教える 勝つための脳と心の科学』という書物でした。

 仕事の合間に、本を読み、オーディオをきいて、その方法を学び、日々の仕事に活かしてみようとやってみました。心の問題なので、数字にあらわして変化を伝えることができないのですが、少しずつ読みすすめていき毎日を過ごすなかで、幾度となく変化を実感することができました。

 べつに本のコマーシャルをするつもりはないのですけどね。けれど、まだあやうかった自分を支えてくれたのも、事実です。

 そんな日々を積み重ねながら、仕事場全体のようすや、その会社が歩んできた歴史や、力を入れている方向性や、その場の人たち同士のコミュニケーションのとり方などを理解できてきて始めて、心の余裕をもってその場にいて仕事ができていると思えるようになりました。自分の性質や性格をその場でどう活かせばともに働く人たちのなかでよろこばれるのか、すなわち自分の居場所というべきものが、見えてきたように思いました。

 そのうえで、初めのころにはギクシャクした感じを持っていた先輩ともわだかまりがなくなり、仕事のことで言われても内容がわかっているのでこちらからの対応もできるようになりました。

 心の問題は形にあらわしにくいので、とらえようがないように思っていたのですが、

世の中にはそんなことをも、わかりやすく説明する能力をもっている人がいるのかと、はじめてスポーツ心理学の科学にふれたときに思ったものです。

 

  今日は、感情というものが、私たちにとってどういうものかというのを、そのさわりの部分を具体例交えてふれてみました。

 これ、目に見えないけれど、日々の生活や幸せ感にとってもとても大切なものだと思います。そしてそれを、より良い感情に少しずつでも変えてゆけたら人生の質を良くしていけて、それを自分で実感することができるのです。

 そのために、感情を自分でみつめていってて、それを自分で意識的に変えて行けるための準備が必要です。

 

 

職場での人間関係を楽にするために

冬の寒さを乗り越えて、日射しの温かさを感じるこの季節です。今だからこそこの暖かさがこんなにもうれしいと感じるようです。早朝に鳴く小鳥の鳴き声も、今までなかったものだからこそ新鮮に感動し、春の兆しを伝えるものとして感じられるのだと思います。

わたしたちにとって感じること、感情というものは、幸せ感やセルフイメージを決める

大切な要素です。今日はなんとなく気持ちがめいるなとか、今日はハッピーな気分などと言ったりしますが、わたしたちはいつも感情と共にいて、それが普通程度ならあまり意識しませんが、ある限度を超えると自分で気になって仕方なくなりますよね。

そうなってくると、わたしたちはそのことが気にかかって捕われてしまい、冷静な判断ができにくくなります。

 仕事場というのは、わたしたちのパフォーマンスを発揮する場ですから、感情的になりたくないですよね。しかしまた、さまざまな人間がひとつの場所でそれぞれの目的をもって活動しているし、組織的な上下関係が存在していたりしてそのなかで一定の成果を出さないといけないですよね。そこにいる人たちにもプレッシャーがあったり、コンプレックスがあったりなど、また人によっては自信がありすぎたりすることもありますしね。また、長時間続くということがあり疲れてもきますよね。厳しい環境だといえると思います。

もちろんそんな中でお互いに気をつかい、不愉快な思いをしないようにと心がけていますけれど。

特に働きはじめて日の浅いときは、なにかにつけて目の前に起こっていることの背景が読めなくて、自分だけ蚊帳の外のように感じたり、違った理解で誤解をしてしまったり、わからないことばかりで疲れてしまったりということがありがちです。

まず、感情的に不安定な時期を、そういうものだと覚悟してへたなことに首をつっこんだりすることなく、楽な気持ちで任されたことを集中してやる気持ちが大事です。

それでも、感情面での厳しさがなくなるわけではありません。ですから人によってさまざま工夫をしているのだということも、頭においとくといいと思います。

なぜ、楽にすることをお勧めするかといえば、それの方が長く続けることができると考えるからです。きつい状態が続けば体調をこわしやすくなりますし、時間をかけて覚えてマスターしたスキルも活用して人の役にたてることができなくなりますし、自分の時間を有効に活用してお給料をいただくことも、ままならなくなります。

自分で望んで次の目標のために辞めるのなら、もちろんいいのですが、その場がいずらくなったりしんどくなったりして辞めるのは、もったいないと思います。長年の夢だった職業にやっとつけたという時などなおさらです。

そういう事を避けるためにも考えてみてほしいです。

 

では、どう考えていったらよいかということを、これから一緒に考えていきたいと思います。

f:id:har4fl172gr355775eg:20180220185404p:plain